羊太夫
 
 
羊太夫の誕生

 それは昔、日本の都が奈良にあったころのお話です。
 上野国(今の群馬県)にたいそう裕福な殿さまがおりました。美しい奥方とともに立派な城に住み、たくさんの人を召しかかえて、何不自由ない暮らしをしていました。

 ところが、この人には子供がありません。自分の地位や財産を、うけついでくれる人がいなかったのです。そこでお不動さまのお堂にこもり、どうか子供をさずけてくださいと、一心に祈りました。

 するとある日、奥方さまの夢の中に立派な身なりの老人があらわれて、
「この子を大事に育てなさい」
と、一頭の羊を手渡しました。

 それから間もなく奥方さまは身ごもって、朱鳥九年(西暦 695 年)未年の未月・未日・未刻に、玉のような男の子を生みおとしました。男の子は羊太夫と名づけられ、大事に育てられました。
 

奈良の都までひとっ走り

 大人になった羊太夫はお父さんの後をつぎ、城主となりました。

 ある日、ごんだ村の長者が、殿さまに是非お乗りいただきたいと、一頭の馬を献上しました。その馬は、普通の馬よりもずっと大きくて、美しい栗毛の馬でした。美しいだけではありません。まるで風のように速く走るのです。

 この馬のおかげで羊太夫は上野国の領地から奈良の都まで、毎日、帝のごきげんをうかがいに通うことができました。上野国と奈良は何百キロメートルも離れています。それを一日で往復するというのですから、どれほど足の速い馬だったかわかるでしょう。

 奈良までの道中、お供をしていたのは八束小脛(やつかこはぎ)という人でした。たいへん足が速く、太夫の馬に走ってついて行けるほどだったそうです。

八束小脛のひみつ

 新幹線なみの速さでつっぱしる馬に徒歩でついて行くというのは普通のことではありません。小脛には秘密がありました。

 ある時、太夫は小脛が昼寝をしているのを見てそっと近づいてみました。するとどうでしょう。小脛の両脇の下に羽が三枚ずつ生えているではありませんか。

 八束小脛はただの人ではありません。羊太夫を守るために仏さまが使わした守護神だったのです。けれど太夫は、そんなこととは知らず、おもしろがって小脛の羽を抜いてしまいました。

 目を覚ました小脛は、大事な羽がなくなっているのに気づいてびっくり。
「なんということを…この羽のおかげで都に参内することもできたというのに。もはやわたしは力を失い、殿をお守りすることはできなくなりました」
といって、ひどく悲しみました。

 それからというもの、あれほど足の速かった小脛はただの人になってしまい、太夫の馬も、以前のようには走れなくなってしまいました。

羊太夫の最後

 それまで毎日かよってきていた太夫が来なくなったので、奈良の都ではおかしな噂がながれるようになりました。

「上野国の羊太夫は帝に謀反をくわだてているようだぞ」

 これを聞いた帝はおおいに怒って、安芸国の広島宿弥長利(ひろしまのすくねながとし)という人に命じて、太夫の城を攻めさせました。

 太夫は勇敢にたたかいましたが、敵の数は多く、ついに最後の時がやってきました。

 そこで太夫は家来のひとりに奥方さまと息子を逃がしてくれるようたのみ、自分は八束小脛とともに城を抜け出し、姿を消しました。一説によれば太夫は蝶に、小脛は鳶(とび)に変身して飛んで行ったともいわれています。

 その後、羊太夫は池村というところに潜んでいましたが、敵に知られ、自害したということです。

七輿山

 さて、家来とともに逃げだした太夫の奥方とその息子ですが、ある森の中で追いつめられて、どこへも逃げられなくなってしまいました。

 そこで、奥方は幼い息子だけでも助けてほしいと、近くのお寺にあずけ、自分は六人の侍女たちとともに自害してしまいました。

 敵がたどりついた時、あたりはすでに血の海となって、誰ひとり生きていませんでした。そこで敵の手の者は、逃亡を手助けした家来の首だけをとって帰って行きました。

 それからというもの、このあたりを七輿山と呼ぶようになりました。奥方と六人の侍女たちが乗ってきた七つの輿(こし)にちなんだ呼び名だということです。
  

◆こぼれ話◆

 昔話というよりは伝説と呼んだほうが良さそうな話。群馬県吉井町の周辺には、羊太夫ゆかりの地がたくさん残されている。

 羊太夫(または羊大夫)という人が実在したかどうかはわからないが、韓国の済州島に「羊」という姓を持つ一族が実在していたり、奈良時代の群馬県には渡来人が多かったことなどを考えると、まったくの空想ではなく、モデルになった人はいたのかもしれない。

 お話では、不動明王に授けられた子となっているが、空を飛ぶ船に乗って渡ってきたという伝説もあるそうで、その時の船が石になり、今でも山の中に残っている。
 

羊たちの雄弁・羊太夫 

昔話の舞台をたずねて・羊太夫伝説 

 ところで、羊太夫の話によく似た伝説が『古今著聞集』にある。
 ある日、右近少将廣継(うこんのしょうしょうひろつぐ)という人が、ひと声に続けて七声いななく不思議な馬をみつけて大金をはたいて買いとった。大事にやしなっているうちに、この馬が普通の馬ではなく、いわゆる龍馬であることがわかった。廣継はこの馬に乗り、午前中は太宰府の仕事をこなし、午後からは奈良の都で朝廷の仕事をこなすようになった。
 右近少将廣継は藤原広嗣のことである。『古今著聞集』に出てくるのはこの部分だけだが、生い立ちをしらべるとさらに羊太夫の伝説と重なってくる。

 藤原広嗣は大化の改新で活躍した藤原鎌足の曾孫にあたる人で、本来ならば政治の中心となって働くはずの人だった。ところが疱瘡が大流行して父や叔父たちがバタバタと死んでいき、藤原家は政治の表舞台から次第に遠ざかっていった。

 そこへ橘諸兄(たちばなのもろえ)や吉備真備(きびのまきび)というニューフェイスが現れて政治の実権を握ったが、おりからの流行病の件などがあって民の生活は少しも良くならなかった。

 それを広嗣は「すべては政治家が無能なせい」だといってまっこうから批判しまくったので睨まれて太宰府にとばされてしまう。太宰府というのは今でいう福岡県にあった都市で、都から遠く離れていることもあり、ここに飛ばされたら「アンタはもう過去の人」と言われたようなものである。

 広嗣は太宰府においても政治批判をやめず、無能な政治家をクビにして俺にやらせろとなんてことを天皇に申し出るが無視される。これでは埒があかないと、ついに九州のツワモノたちを集めて都に戦をしかける決意をするのだった。

 これを聞いた天皇も大野東人(おおのあずまんど)に広嗣を討てと命令。最初のうちは互角にたたかっていたが、期待していた援軍をことわられるなどして広嗣の軍勢は負けてしまった。船に乗って韓国の済州島に逃げようとするも、風に吹き戻されて朝廷軍に捕まり処刑されてしまう。一説によれば広嗣は自ら首をはね、その首が空高く舞いあがったのを見て多くの人が怯えて死んだとも。
 

 
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